30歳死亡説の検証にあたって。

BBAに片足突っ込んだ者のなんとも痛々しい戯言。音楽と心理学と兎とトマト。

輪廻転生(死のはなしはエンドレス)

三嶋由紀夫の自死を『あんな馬鹿げたことをしたもんだから・・』とある著名な方が述べた。
まあ、あの死に方・演出自体は捉え様によっては馬鹿げているとも採れるか。

ただ、私は大の三島ファン(これは大変誤解を招くことが多い)。
自死を以って人生を美しく終えるという彼の価値観・美学に対しては、そんなに拒絶反応を起こさなかった。
彼の人生ですからね。悲しんだり迷惑したり憤ったりするのはあくまでも三島以外の他人。
自分の人生を自分が思う形で全うするという意味では、否定できない気もしている。



例えば現代。線路に飛び込み電車を使っての自死
人身事故として乗客・利用客にアナウンスされ、ホームでは生き急ぐ人々の舌打ち。
自死の話題で喜ぶ人はまずないけれど、批難されるのも如何なものか。
遺された手段がそれしかなかったのかもしれない。
唯一の意思表示が自死しかなかったのかもしれない。
そんなことを考えると、むやみに私は怒れず、
イライラが募る群衆の中で死者の最期の意思を勝手に想像する。



自死について考えると、やはり私の父親のことを考える。
父は「死んでしまいたい」という表現だった。「死にたい」ではなかった。
そこに違いはあるのかな、なんて考えてみたが、分からん。
いわゆる『死にたいほどしんどい』という状態か。分からん。自死も簡単ではない。
死ぬつもりであったけど死ねなかった経験がある人も現に多いだろう。

そして私はまた、父と全く同じような希死念慮を抱いていた当時の好きな人を思い出す。
幼いながらに父のことを気に掛けて生き続けたのと同じく、
私は一生この人のことを見捨てられず、気に掛け続けるのかもしれない。
(記事数少ないブログでこの話題2回目)

何が書きたかったのか。
自死は表現なのか?!という疑問が湧いただけです。
それ以上も以下もありません。



自殺擁護、自殺肯定のような記事を書いてしまったが、決してそうではない。
やはり、苦しんだ結末として死を選ばざるを得ないのは、悲しい。

忘れないのは、数年前のクリスマス。
ラブホテル副業から私が帰宅した深夜2時、
ベッドで丸まって嗚咽を漏らす旦那さんの姿。
幼馴染で野球のバッテリーを組んでいた親友が練炭自死したと。

遺された人間には無念さが一生残る。
己の無力さを味わい続けねばならない。

『死にたいけど死ねない』人間を生かすべきか、死なせるべきか。
そんな「べき論」では無く、自分はどのように抱えることができるのか。
そんな日のために柔軟な頭にしておきたい。



余談。
私は実は生命の尊さ、生まれて死ぬことの尊さや虚無を
まだまだ掴みきれていないからこんな戯言が述べれるのだろう。

兎と暮らしだして約3週目。
毎朝帰宅し、毎晩帰宅したときに、愛兎がしっかり生きていることが幸せで。
どの生命にとってもこれは当たり前じゃないんだと、その瞬間に生命を痛感する。
抱いた時の重み、ぬくもり。生きることは重み、ぬくもり(ではない)。

生命談義は止まりませんね。
生=性なので、真面目な意味での性談義もいつかは。



BGM:
□□□(クチロロ)/あたらしいたましい feat. 金田朋子