30歳死亡説の検証にあたって。

BBAに片足突っ込んだ者のなんとも痛々しい戯言。音楽と心理学と兎とトマト。

黒歴史とみなしているものは懺悔・心咎・不全感

『怒らずとも子どもと関係が取れる指導員になりたい』
と、うら若き頃のフレッシュなわたしは宣言した。



鼻で笑われた。施設長に。
「なれるもんならどうぞ。」と。



既出の通り、わたしが初めに勤めた社会福祉法人は明らかにトチ狂っていた。
何もかも。本当に何もかも。

児童入所定員約100名、時代に逆行した大舎制施設。
大学4年の夏よりアルバイトで勤務していたが、おかしなところを挙げるとキリがない。

これは全国どこの福祉施設でもそうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれないが
まあなんせ、毎日職員から子どもへの怒号が響く。
しかし、ここでは、理不尽で子どもの心を踏みにじるようにも思える言葉すら飛び交う。
不必要な叱責と蹂躙。
はじめはそれに驚愕したが、次第に麻痺していく自分もいた。

あるベテラン女性職員は言った。
「ここは家庭的養護の場ではなく、昔で言う”教護院”やから。児相もうちのことそう思ってる。」

ドヤ顔で述べたその職員がナチュラルに恐ろしかった。
ああ私、勤める場所間違ったんだなと。

そんな中で入職時のわたしが志したのが冒頭の『怒らずとも関係が作れる指導員』だ。
分かる人には分かっていただけるであろう、
当時のわたしが振り絞った最大級の厭味。現存職員へのアンチテーゼ。生意気な。
だから施設長も鼻で笑ったんだろうな。



とはいえ、日々感覚は麻痺していく。
『こんなことも子どもに指導できない(させられない)のか!?』と管理職から指摘される。
勤務外の真夜中の時間や、夜勤明けで一睡もしていない朝の打ち合わせ。
指導力不足”というテーマだけを先行して突き付けられ、肝心な”指導力”がなんであるかを見出すことすら忘れて。

先輩職員も同期も後輩職員も頼れない。
上司と不倫した挙句、妊娠中絶して仕事に穴をあけたり急に辞めたり、色恋にトチ狂った非職業人≒アホ猿どもが数匹。
なんの専門性のかけらも感じられない上に、施設の風潮になんの違和感も持たずに児童にキレ狂う職員。
対人援助への熱意が空回りして児童にも職員にも過剰な叱責・指導する惜しい職員。
法人の体制、職員の方向性、なにもかも全て理不尽極まり無い。
みんなとっくに限界通り越してトチ狂ってたんだろうか。

日々強くなる『私だけはちゃんとせねば』という間違った信念が良くなかった。

そのうち、私も麻痺がエスカレートしたせいで
”仕事ができる(=指導できる)存在”として扱われるようになった。
知らずのうちになってしまっていたことにも気付かず。
職員からも期待され(というか完全に人材不足が原因)、2年目で先輩を差し置き、副フロア長。
担当児童から『いずれ主任とかなるタイプ』、担当外児童から『小学生男子を制圧してるのは先生』と揶揄され。
ある担当児童からは『俺はここのこと刑務所やと思ってる』と・・。

正直、気分がいいものでは全く無かった。自分に対する不快感と嫌悪感。他者への懺悔。
とっくにもう限界だった。
自分がなりたくない質の指導員になってしまっている、という明確な証拠。
理想との不一致、だいぶんとキツかった。

そんな職場ではあったが、今でも交流がある尊敬できる上司が数名いる(逆に他とは絶縁した)。

主任は、私の理想不一致感・空回り感・不適切な方向に行ってしまってることを察し、新年度に配置換えとなった。
『気付いていたけど、今まで何も助けてあげられなくて申し訳なかった。』
『もう”自分だけがしっかりしないと”と思わなくていい。そういうメンバーにした。』
『指導だったり、最終的な責任や締めは俺が担うから。肩の力抜いて楽にやってよ。』
本当にこの1年は、肩の力抜きまくった。

夜中の自傷、無断外泊、破壊行為、不良行為、引きこもり・・
担当と役割が変わり、いろんな児童からの多様な表出が目前で出てきて大変だったけれど
”指導員として怒らずに関係をとる”というのをやっと体感させてもらえた気がする。



当時、職員の交換研修会というものがあり、施設間で職員を交換する機会があった。
『どこへ出しても恥ずかしくない職員だから』というまた変な理由で
先輩の順番をすっ飛ばして私が参加させてもらったことがある。

幸い、というか偶然にも、私は超イレギュラーな形で、他施設の心理職の方とペアになった。

その時にうちの施設長、
「この職員(私)はね、怒らずに子どもと関係が取れる指導員になりたいって
 新任の時は言ってたんですけど。最近はまあようやく現実が見えてきたようですわ。」と。
ふふ、やはり私のなりたくなかった指導員化は加速してんねやなと己を嘲笑した。

でも、しばらくしてその心理職の方と二人で話していたら
「僕も実は元・指導員だったんですよ。一度退職してから進学して・・」と。
「指導員の時の僕と今の僕ではちょっと違いますよ(苦笑)」
「その”怒らない関係”を目指したいっていうのは、すごく分かります。
 むしろ、たくさん怒ったからこそ気付いたのかもしれませんけどね。」と。

その時に、”なりたくない職員化”の加速は止められることや、どういう視点で対人援助に携わりたいのかも確信した気がする。
要するに、こんな職場辞めて院進目指そうかな(≒やっぱり心理職したいな)って、現実的な形で考えるようになった。



あれから、約5年が経つ。
長々とした都合のいい自分語り。己を肯定して慰めるような稚拙さ。狡い被害感覚。他責的感情。

依然としてそこで勤めた約3年半は、私にとっても、私に関わった人にとっても、黒歴史であり続けるのかもしれない。
ただ。私はもう、”指導しなきゃ”という自分の身に似合わない重荷からは解放されている。
それどころか。
やっと『叱責や指導ではない方法で相手と関係が取っていくことが大前提の対人援助職』の道を歩み始めている。
きっと、自分が目指した支援は今までとは別の苦悩を伴うだろうけど。
当時に積み残したままのたくさんの不全感や懺悔を忘れないように。