30歳死亡説の検証にあたって。

BBAに片足突っ込んだ者のなんとも痛々しい戯言。音楽と心理学と兎とトマト。

令和元年の遺し物

「愛について。私はその存在が何であるかを自問自答し続けねばならない 。」

 

 

 

などと、似非ロマンチストが申しており。

などと、哲学者気取りが申しており。

それは皆、私であり。

 

親、養育者、時には自らより与えられるものである名前。私は相手の名前の意味とか大事にしたい人間なので、同じぐらい自分の名前の意味も大切に扱っているつもり。

 

私の名前にその字が含まれている限り、私は丁重にそれを考えねばならない。という思い込み。自分への縛り。

 

 

 

前置きはさておき。

『旦那さんのこと愛してますか?』

と、唐突に知人から尋ねられた。

 

核心を突かれたのか、瞬時に脳内はフリーズ。

 

“まず愛を定義してくれないと、そんなこと安易に言葉にするわけにはいかないよ”と言い返したかったが、この場で会話がめんどくさくなるのも、今後めんどくさい人間認定されるのも避けたかったので、さて困った。

 

 

 

結婚生活、今現状の生活では表面的には問題なく暮らしてて、仲も別に今は険悪ではないし、極一般的な意味で言えば愛してるんだと思う。

 

問題なく暮らせるから愛してる?仲良しだから愛してる?経済的に支えてくれるから愛してる?好きなことさせてくれるから愛してる?優しいから?怒らないから?好きだから?

抽象を具体化するかわりに、こじつけのような理由を挙げれば挙げるほど、愛はぼやける。

 

 

 

そもそも、こんな厄介なことを考えはじめたきっかけは、指導員当時、真摯に向き合っていた小学生と生い立ち整理の作業をする中で『先生は名前通り、僕に愛を分けてくれるの?』と投げかけられたことだった。

 

私が彼に分けてあげられる愛ってなんだろう。

彼はどういう愛を求めていたんだろう。

数日後に里親と縁組になる君に、私はどんな愛を分けてあげられるんだろう。私とは2度と会うことがないであろう、君に。

そもそも愛ってなんだ。分けられるものなのか。私に愛なんてあるのか。

 

 

 

 

愛を前提にしたら。

途端にこの世界から消えてしまいそうな、居ないも同然のように扱われかねないような。

産まれた瞬間からそんな脆弱性を孕んだまま生きている存在も居る。

極一般的な意味での愛なんか、私は安易に定義できない、語れない。

 

愛は隙間を縫ってスイスイと姿かたちを変化させ、“〇〇的な愛”として茶を濁す。

 

 

結局、考え抜いた末に私が答えた返答は、

「どっちで答えてもどうせ揚げ足取るでしょ」「そりゃあ、これだけ好きなことさせてもらっておいて、“愛してない”なんて答えられるはずないでしょう」という、なんともお粗末な逃げぶりで。

愛によって、歯切れが悪いながらも自分の社会的面目を守ったのだった。

 

 

 

追記:ちなみに愛を問うてきた知人は、不倫相手が嫁に直接対決を申し込んできて、修羅場真っ最中である。

 

追記2:ちなみにちなみに愛を問うてきた知人は、マジのマジの修羅場になり、波乱万丈あって今は離婚調停中で、本人曰く『今1番人生で周りからの愛を感じている』そうな。