30歳死亡説の検証にあたって。

BBAに片足突っ込んだ者のなんとも痛々しい戯言。音楽と心理学と兎とトマト。

『30歳死亡説を検証』

『30歳死亡説』とは一体。ダサさがすげえ。

そして何故に今更、はてなブログなど始めておるんだ。

Twitterに飽きた、と言うと短絡的すぎるけれど、SNSなんてそんなもんで良い(と思おうとしている)。
実際に、マルチアカウンターだけどイマイチ使い分けできておらず、
死に垢と化しているTwitterアカウントもあるし、ブクログも活用しきれていない。
そもそも、使うも使わぬも、如何に使用しようが仕様がない。(くどい)
飽きたなら飽きればいい。


Twitterを初めて10年目で、当初から利用していたアカウントを消した。
当時はきっと青年期初期の「友達には言えない本当の自分」みたいなコンセプトで
コソコソ会ってた男性のこととか、彼氏・友人との関係や大学生活などへの不平不満を
陰湿につらつらと書く目的だったんだと思う。
本当の自分と偽りの自分、という二面で自分を捉えようとするイージーな脳みそ。

そのうち、就職すると、二面じゃ足らないのではないかと気づく。

児童福祉領域(社会的養護関係)で勤務してきた。
子どもの前、上司・同僚の前、経営者の前・・・
母親的・お姉さん的・指導者・単なる第三者として・・・
職務上、様々な役割を相手との関係性を探るなかで変幻自在に操る自分。
真偽のベクトルで自分を捉えるのに限界がきた。

そして自分のプライベートで、バランスをとるように
真偽の二面ではなく、TPOに合わせて柔軟な
「ハイスペックなカメレオン(またもやダサい)」であるべきだと思い込むようになった。
積極的に自分の色んな一面を誇示するようになった。

ここ数年の自分の新アカウント乱立は目に余るものがある。
その時々の自分を補完するために、役を演じるように、
ある種の自己呈示のように、アカウントの中で自分を誇示する。
でもそのうちすぐ飽きるのだ。すぐカメレオンのボロがでるのだ。
飽きるスパンも短くなり、結果的に乱立。

自分なりに理由を考えた結果、
「カメレオンしたとて、個体は同じ」なので「帰属地点も帰着地点も、ひとつ」。
ボロが出る、というより、そりゃ、収束するわな。


話は大いに逸れてしまったが、私は今年30歳の心理学修士2年生。
高校2年生のころ、漠然と『あ、核戦争で自分は30歳で死ぬな』と思った。
ちょうど某国の核ミサイル実験の時に韓国へ行ったのもデカいし、
火の鳥~未来編~」を何度も読んだりした影響もデカい。
己の30歳死亡説は、確信でもあったし、もしかすると望みでもあったかもしれない。

でも、いよいよ30歳を迎えるが、希死念慮も差し迫る死も数年前より薄れ、
院卒業して再就職も迎えようとしている現状は、
むしろ30歳以後の生活に手を伸ばしている感が否めない。


自分の中でほぼ確信だった『30歳死亡説』との矛盾。
そして、30歳を前に「カメレオンしたとて、帰属・帰着する地点は同じ」という
あったりまえのことに気付いて、統合(といえば過剰表現であるが)されつつある自己。
ズタボロの状況のなかで「やっぱり自分は院に行きたい。心理専門職がしたい。」と思った時に
「自分とじっくり向き合うことも大切な臨床のヒント」と助言してくれた前職で世話になった心理士。


また飽きる可能性は大いにあるけれど、幼稚な30前が
140字じゃ収まらない自分語りを1か所でするのもいいかなと思ったのです。