30歳死亡説の検証にあたって。

BBAに片足突っ込んだ者のなんとも痛々しい戯言。音楽と心理学と兎とトマト。

2013-2020

「忘れられないの。」

サカナクション?あの曲良いよね。
夏の夜の高速道路で聴きたい。夏もう終わったけど。
※ちなみに、『モス』のマイノリティ叫びは、
 スパルタローカルズからの着想再びなのかなと勝手に思っている。
 音楽番組でのオマージュ前例があるので・・



忘れられない。

東京オリンピックするころって、俺ら…19か。絶対観に行こ!」
「その頃やったら別に俺ら東京行こうと思えば行けるやんな?」

と会話した当時の小6男子のこと。
オリンピック関連のニュースを見るたびに思い出している。



彼は被虐待で入所していた子で、私はその施設の指導員だった。

私たちは気が合いすぎた。
理不尽なものに対して感じるものだったり、その表現の仕方。
執念深さ。負けず嫌いな気持ち。何かと根に持つ。
干支や血液型も一緒だったので、それも彼は喜んだ。

とはいうものの。
暴力暴言による支配的態度が目立ち、怒りの統制が難しく、
私自身も非常に未熟で、投影性同一視的に巻き込まれることも多かった。
例えば深夜、仕事帰りに埠頭や車で叫んだり、ビンを割ったりモノを投げたりした。
夢で、高校生になった彼が鉄パイプを握って人を襲っているシーンを見た。
彼との関わりは一筋縄ではいかず、正直楽しいことばかりではなかった。

それでも他の女性職員と比べてみると、関係性は良いほうだったし
正直、その手ごたえはあった。
彼も施設生活が長い故の弊害かつ生きる術である鋭い観察眼で
私の人となりをよく観察し、見抜き、
その上で一目置いてくれているのを感じた。

でも、そのうち彼の「こいつは俺のことを分かってくれている」が過剰になり、
「分かるけれど、応じられない」ということが増え、その葛藤が私に生まれた。
ある事件がきっかけで関係に歪みが生じ始め、最終的には暴力という形で表出された。
(この当時の私にも大きな反省点があって情けなさを今でも感じる。)
家族・施設・当事者である私たち、形の上で和解はしたものの、彼はすでに思春期真っ只中。
もう以前同様の関係再構築は難しく、お互いしこりを残したまま関わり続けていた。

結局、私が先に施設を後にするまでずっと彼の担当であり続けた。
私の退職も唐突なものだったけれど、彼の退所も本当に唐突だった。
措置変更らしく、その後はどうなっているのかは知る由もない。



「わかってほしい=甘え」である、という認識が
自身の生活感覚の根底にあると気付いたのも、彼との関わりの中だった。
「わかってほしい」と思うこと自体は良い悪いの二元論では判断できない。
「甘え」自体だって別に悪くない。

甘えの受け止め方が不適切だったんだな、私はきっと。



現実や現状とか、将来の状況とか、そんなことは蚊帳の外で
ただ単純に、純粋に「東京オリンピックを観戦したい」と言ったこと。
向こうはそんな会話をしたことすらもう忘れてるだろうな。
成人していた私と、まだ幼いながらに多くのものを背負いすぎた彼の
年月経過のなかで感じ得るものの濃密さは比べ物にならないだろうから。

でも、その時抱いた純粋な願望自体はその子が覚えていて、
来年東京へ行ってくれてたらいいのにな、とか勝手に思ってしまう。

十分に関わってあげられなかったからこそ、勝手なエゴイズムだけが残る。